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『東京大学物語』 |
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| 『東京大学物語』とは、男性の自意識を限界まで描きぬくことに挑んだ、究極の男性研究の作品だ。 村上直樹の壮大な自意識。 それが作品全体を貫く命題である。 『東京大学物語』は、表面のストーリーと平行して、主人公・村上の内面の心理を克明に描くことで、従来の青春ラブロマンスものとは違う地平を切り開こうとした作品である。 …と、まずはくくることができそうである 『東大物語』は、そのような実験性を高校生の恋愛ドラマという枠の中で、メジャー週刊誌で試みた実にきわどい、そして危ういバランスの作品である。 主人公の持て余し気味の自意識とラブロマンスとしてのストーリーテリング。 漫画表現の異次元を模索する開拓精神と淡い恋を見つめるやわらかいまなざし。 それらのバランスが崩れたとき、「作品として」の『東大物語』は崩壊した。… 前衛のため「だけ」の前衛。実験のため「だけ」の実験。 東京編での村上はただの性欲男に堕し、遥はただの変な女になっていた。 函館編は珠玉の青春ラブストーリーだが、東京編は救いようのないまでにバランスを崩壊した膨大な可燃ゴミでしかない。… たしかに基本は、実験作である。 それ自体は函館編でも変わらない。東京編だけではない。 しかし、函館編は、実験的な「だけ」の漫画ではなかった。 いわば、前衛性と青春讃歌が出会うベクトルの交点に立っていた。 たとえば、「冬がすき」の悲しいほど透明なリリシズムは、一編の詩のような出来ばえで、今なお僕の愛読作である。 そして、「しあわせの補集合」から英里の誕生日までの間の、村上、遥、英里のエピソードには、高校時代というものの持つ、どうしようもない直情、どうしようもない不器用さ、どうしようもない思いやり……が横溢し、読み手の胸をいやがおうにも締めつける。 この時期は、後の東京編における英里との残酷なまでのコントラストを描くことにもなる。 ブライアン・ウィルソンが「キャロライン、ノー」で歌いあげた、洗練と引き換えに失う何か。水晶のように透明に光る何かへの愛惜。… …もし、「実験」作品としてでなく、実験「作品」としてみるならば、村上と英里との東京の一夜をなくして、村上と遥が二人で合格してハッピーエンド……などとしていたなら……ことによると、漫画史上に残る良質の青春ラブロマンスとして記憶されていたかもしれない。決壊した実験としてではなく。 終わらせるタイミング。 『東京大学物語』は、その重要性を痛感させられる作品にもなったのだった。 P.S. 余談ながら、江川達也氏のかつての作品に、『まじかるタルるート君』ってのがあったが、『東京大学物語』の中で 『ドラえもん』を批判するかわりに自分の『タルるート』を自画自賛するということをしたため、作者の江川達也という人は、『ドラえもん』関係のサイトで、メチャ評判悪いようだ。狂信的な『ドラえもん』ファンからは、敵視されている、と言っていいぐらいでしょうな。… 『東京大学』の作中で、主人公に「のび太くんはドラえもんに頼るだけだけど、本丸くんは自分で行動するからいい」、「たしかに、『タルるート』は『ドラえもん』へのアンチテーゼだね」みたいな台詞を言わせたのよね。 「自分はそのつもりで書いたのに、誰もそう読んでくれないから、自分で主旨を説明しちゃう」ってのは、 とても悲しい自慰ですが、僕にも思い当たることはあるからなぁ。… (2000年10月) |