『パーマン』 藤子・F・不二雄 小学館

もうずいぶん長いこと遠ざかってる世界ですが、何らてらわず素直に言って、僕の子ども時代にきわめて重大な役割を果たしたのが藤子・F・不二雄の諸作品ということになります。
筆頭はもちろん『ドラえもん』なんですが、『ドラえもん』はね、まあ、今でも次々と新しい世代に読みつがれてますし、僕なんかがあーだこーだ言わなくても、すばらしいホームページ、ありますしね。
が、藤子・F・不二雄の場合、『ドラえもん』がもてはやされてるのと引き換えに、それ以外の作品が不当なまでにおとしめられている感は否めません。
(みんな、『ドラえもん』、『ドラえもん』っていうけど、『ドラえもん』以外にもいい作品、いっぱいあるのになぁ…)
って思ってる人、多いんじゃなくって?
そこで、ここでは『パーマン』を取り上げておきますね。
1960年代と1980年代に2度アニメ化され、知名度はたしかに高いんですが、『ドラえもん』に比べると、ちゃんと「新しい世代に読みつがれて」はいない気がするのが、けだし、残念なことです。
中には、『ドラえもん』をすら凌駕する作品もいっぱいあるのに。…
私は昭和48年の生まれなんですが、はじめて『パーマン』に出会ったのは、何の因果か、「ドラえもん」のアニメの中でした。
で、たぶん昭和54年か5年頃、私が6歳か7歳くらいの頃、アニメの「ドラえもん」のスペシャルのときに「ドラ・Q・パーマン」ってのがやってまして、そんときにはじめて『パーマン』という世界の存在を知りました。
それから、小学館の「てんとう虫コミックス」で当時2册しかなかった『パーマン』を買ってもらって、読みまくりました。
だいたい小学校低学年くらいの男の子ってもんは、ヒーローものに憧れるのが相場じゃないですか。
でも、「ウルトラマン」にしても「仮面ライダー」にしても、あくまで主人公のヒーローは大人ですよね。
だから、どうしてもヒーローはあくまで遠い存在だったんですよね。
同年代の子どもが出てきても、それはヒーローに助けられる市井の少年とか、ヒーローをサポートする少年団とかで、主人公そのものではない。
だから、どうしても大人のヒーローには憧れることはできても、親しみをもって思い入れすることは難しい。…
と、そこで出会ったのが『パーマン』でした。
自分とそう年の違わない少年がヒーローになる、ってのが新鮮でしたね。
主人公の悩める部分も、ウルトラマンにおける異星人ゆえの悲しみ、とか、仮面ライダーにおける改造人間ゆえの悲しみ、と違って、もっと身近に理解できる気がしましたし。
当時の『コロコロコミック』に毎月、『サンデー』に載っていた『パーマン』が再録されてまして、単行本二冊とともに、愛読しました。
だから、後に単行本の3、4巻に収録されたような作品は、『コロコロコミック』で最初に読みました。
その中にあった「かなしい勝利」は僕にとって衝撃的な作品でありました。
「よくやった。それがパーマンの勇気だ。君はケンカに負けて、実は勝ったんだ」っていう最後の台詞、今読んでも、感動的ですね。
というより、あの作品の持つ大切な意味、それは初めて読んだ幼い頃よりも、最近のほうがむしろよくわかる気がします。
あるいは、「それでもミツ夫はやる!」の最後の、あの満足げな笑顔の意味も。
『パーマン』が単なるズッコケギャグヒーローものではなく、日本マンガ史上、マレに見る、心の琴線に触れる作品になっているのは、主人公であるミツ夫の、ヒーローでありながら普通の少年でもある、あの相克にありますね。
そんな『パーマン』の最高傑作は、「パーマンはつらいよ」というエピソードだ、というのが、衆目の一致するところでしょう。
ふたつの顔を持つがゆえの相克という、子ども読者にはわかりづらいテーマを描いて、ヘタすればクサくなってしまう内容を決して辛気くさくならずに絶妙のバランスで作品化する。そして、それが純粋にドラマとして見事な高みに達しているという意味で、「パーマンはつらいよ」は、やはり凄い作品だと思います。
ここでのミツ夫の「パーマンをやめる」の動機は「パーマンやめたい」のときのような、自己の能力、適正への疑問、コンプレックスなどではなく、もっと作品そのものの根幹のテーマに関わる根本的な命題。
すなわち、ふたつの顔をもちながら、「自分自身の本来の姿」のままでは評価されないというジレンマ。「見返りなし」の努力への疑問。
無償の努力の尊さ、と言葉で言うのは簡単ですが、小学生であるミツ夫にそれを課すことの厳しさをクールに描くあたり、並の少年ヒーローマンガじゃ見られませんもの。
やっぱり誰でも
「僕はこんなにがんばってるんだよぉ!
誰か僕をほめてよ!
誰か僕にやさしくしてよ!」
ってなりますもんね。それが当然ですよ、人として。
(余談ですが、90年代後半に大ブームになった「エヴァンゲリオン」、第19話は監督が意図したかどうかは別として「パーマンはつらいよ」に似ている気がします)
そんな普通の人間なら誰もが陥る当たり前の陥穽を、子ども読者にもわかりやすく描いたうえで、ミツ夫の一人間としての葛藤、決断を見事に表現する手法。
最近のアニメでも滅多に見られない高い完成度ではないでしょうか。
あの布団にくるまって、一生懸命に水害のことは考えまいとする、しかし…というシーンでの、あの描写は凄いの一言につきます。
布団の中から見えるミツ夫のふたつの目。
あの目がどんなくどい独白よりも彼の葛藤を鮮明に表していましたね。
「わからない。でも行かずにはいられないんだ」
「誰も褒めなくても私だけは知っているよ。
君がえらいやつだと言うことを」
このラストシーン、冗談ぬきで本当に泣きました。
「自分の損得勘定抜きで、無私になって人のためにつくさなければならないことがある」
なんてストレートに言っちゃたら、お説教くさい。
そう、たしかに内容的にはお説教くさいと言える。
しかし、そういうお説教くさい内容を包含しているにも関わらず、純粋に一少年のドラマとしてのめりこまされて、一少年のドラマとして、心を動かされずにはいられない。…そのあたりの筆力はもう神業ですな。
そういった意味で、あれは本当にスゴい作品です。
『ドラえもん』や『オバケのQ太郎』でも、あのレベルの感動はそう何度も味わってはいません。
いや…つい長い語りになってしまいましたが、もちろん、他にもすきな作品はたくさんたくさんあります。
大作「鉄の棺桶」は手に汗握る興奮で、初めて読んだときには東側世界のことなんてまったく知りませんでしたが、ドキドキしながら読んだものです。
あるいは、「ギャド連花見」や「ラッパで飛んでこい」みたいにひたすら明るい作品もいいですね。
(というより、「パーマンはつらいよ」系統よりは、このテの「明るく楽しい」世界こそ『パーマン』の本領でしょうからね)
……で、まあ、このように小学生時代前半に最も影響をうけた作品のひとつとして『パーマン』はあります。
そして、僕が小学生の半ば過ぎぐらいの頃、リメークでアニメ化されました。
さきに述べてきたように、僕は26のくせに旧『パーマン』から入ったんです。
白黒時代の旧アニメは見てませんが、昭和42年の、あの原作でまず『パーマン』を知りました。
ここでの新生『パーマン』は、そんな〈原作派〉にとっては、戸惑う部分も、正直ありました。
絵柄の違いやブービーことパーマン2号の生活環強などの設定の違いには戸惑ったし、コピーロボットの鼻はやっぱり黒く塗られてないと、しっくりこない…など、個人的に思うところはありますが、いちばんの相違点はヒロインはパー子こと、パーマン3号の扱いではないでしょうか。
1960年代に描かれた原作のパー子は、正体不明の謎のパーマンでしたが、この1980年代の『パーマン』では、最初から正体(子役スターの星野スミレ、ですね。この星野スミレとしてのパ−子が『ドラえもん』の中で「遠い遠い国にいるすきな人のこと」をのび太に語ったり、ペンダントにミツ夫の写真を入れてたりするんですが、それはまた別のお話)
が明かされてます。
そして、それによって、パー子メインの佳作がいっぱい生まれました。
新作のパ−子はスミレとしての自分とパー子としての自分、ふたつの顔の相克に直面してるわけですね。
芸能人としてもてはやされながら、友達には遠まきに見られ、なかなか「ひとりの女の子」として打ち解けてもらえない悲しみ。
芸能人としては成功しているが、学校においても家庭においても孤独で、ひとりの女の子としては決して幸せではない彼女。
彼女がひとりの女の子として奔放にふるまって、ざっくばらんな友情をもてるのは、パーマンの仮面をつけているときだけという皮肉。
そして、彼女が一少女として惹かれているミツ夫には仮面をぬいだスミレとしては(でも本当はこっちこそが「仮面」)愛されているのに、仮面をつけたパー子としては(こっちこそが本当の「仮面をぬいだ姿」)なかなか「女の子」として、異性としての認知をしてもらえないもどかしさ。…
このパー子の抱えるジレンマってのは、さきに言及したミツ夫のジレンマと同様、非常によくわかる話で、旧作にはない、新作ならでは魅力だと思います。
こと、パー子に関してはこの「等身大の少女としての葛藤」が付与されたぶん、旧作より魅力的に描かれていますよね。
「パー子のすきな人」や「はごろも伝説」など、彼女を中心にあつかった新『パーマン』特有のエピソードはいずれもなかなかの佳作で、これを読んで、ますます彼女のファンになりました。(^^;)
(↑クリティカルなことを述べれば、藤子不二雄は、ご両人とも、女の子の顔をかわいく描くというのが著しく不得手な人たちですが、パー子の場合、マスクをしてるからOKという、どうしようもない皮肉となっていますな)
単なる日常ドタバタを超えて、少年少女のレーゾン・デートゥルを問いかけてしまうという、高度に哲学的な内容まで孕んで(←ちょっとオーバー)いる『パーマン』のような作品は、決して、『ドラえもん』にもおさおさ劣るようなものではないし、他の多くの藤子・F・不二雄作品と同様に、正当なる名誉回復を要求する必要があるのではないでしょうか。
(1999年1月、2000年2月)
P.S.1
この稿は、以前、『パーマン』のサイトに投稿した原稿をベースに、今回、「小林孝博的マンガ喫茶」用に若干の加筆訂正をしたものです。
かくのごとき拙い文章をアップロードしてくれた大田康湖さんに、改めて謝意を申し上げます。
P.S.2
『パーマン』を含む藤子・F・不二雄作品全般を扱うサイトとしては、河井質店さんの運営するページが、気の遠くなるほどの見事な内容を誇ってます。
ご一読をお薦めします。