『オバケのQ太郎』

藤子不二雄


小学館他(絶版中)

1『オバQ』は藤子不二雄作品である


今さら説明するまでもないことですが、かつて「藤子不二雄」というコンビ名で知られていた富山県出身の漫画ユニットは、実際にはコンビ解消するよりずっと以前のかなり初期から「合作」ではなく、「別個に執筆」していました。
藤子・F・不二雄こと藤本弘と、藤子不二雄Aこと安孫子素雄とで。
藤子不二雄はエラリー・クイーンではなかったのです。


いわゆる児童漫画の鉄人は藤本のほう。
現在となっては『ドラえもん』しか現役の子どもに読み継がれてはいないけれど、名作『パーマン』をはじめ、ギャグのテンション的には『ドラえもん』をはるかに凌駕する『21エモン』『ウメ星デンカ』を忘れるべきではありますまい。
『キテレツ大百科』は、少年とロボットの役割分担が『ドラえもん』とは逆の、“B面”的アンチテーゼ作。
そして、同じく『ドラ』系列なんだけど、珍しく女の子を主人公に据えた晩年の『チンプイ』では、新境地を見せてくれました。
(『ポコニャン』や『Uボー』や『宙ポコ』などが「ようするに『ドラえもん』とどう違うの?」だったのに対して、『チンプイ』は見事に別の地平を見せてくれています)

そういった“家庭内異物闖入モノ”以外では、『エスパー魔美』というのもありました。
そして、藤本の最高の傑作群が結集するショートショートSFは、もっと広く読まれてもいい高品質の“マンガ版ミステリーゾーン”です。


そんな藤本に比べると、安孫子が、「天才の前の凡人」に思えてしまうのは、多少はしかたないでしょう。

安孫子はというと、『怪物くん』『忍者ハットリくん』、それに『パラソルへんべえ』など、子ども向け作品で人口に膾炙したものも、たしかに何点かはあるけれど、それは本分ではありませんから。

むしろ、安孫子の本分はそれら児童作品ではなく、かと言って、『魔太郎がくる!』や『黒イせえるすまん(いわゆる『笑ウせえるすまん』)』といったブラック路線でもなく、もちろん、あの(何の魅力も感じられない)『プロゴルファー猿』でもなく、ライフワークの『まんが道』や映画化された『少年時代』のような人間ドラマでしょうね。


さて。
そのように、両者の作品群を羅列しましたが、ここまで読むと、何かに気づきませんか?

そう。
『ドラえもん』が登場するまで、ずっと「藤子不二雄の代表作」としてその代名詞となってきた『オバケのQ太郎』が出てこなかったことに。


『オバQ』こと『オバケのQ太郎』は、実は藤子・F・不二雄作品でもなければ、藤子不二雄A作品でもありません。

「藤子不二雄作品」と呼ぶしかありません。

本当に数少ない、それこそ、アマチュア時代を除けば実は数えるほどしかない正真正銘の〈合作〉なのです。

コンビ解消宣言より実際にはずっと前から、事実上は「別の作家」だった二人ですが、そのユニットの記念碑的コラボレーションが『オバケのQ太郎』という超有名作だったということは、ユニットの意味がゼロではなかったという証明であり、「藤子不二雄」というペンネームにとっては、実に祝福すべきことであります。

(なお、余談ながら、『オバQ』が完全合作であるひとつの証明として、「小池さん」というキャラクターのことが挙げられます。20歳以上の多くの日本人なら、すぐにコンセンサスが得られてしまう歴史的な脇役。ただただ食べ物の趣味のインパクトだけでおなじみになってしまったというスゴいキャラ。この「小池さん」は、その後の藤子作品でも名前や役柄を変えて頻繁に登場してきますが、その区別は藤本作品、安孫子作品を問いません。決してコロ助が安孫子作品に登場したり、喪黒福造が藤本作品に登場したりすることはないのに、です)



2『オバQ』は藤子不二雄作品ではない


しかし、『オバQ』は単なる「二人の合作」にとどまらない一面もあります。

こんなことは、児童漫画に通暁した人なら百も承知のことでしょうが、1960年代、藤子不二雄の二人と、アル中になる前の赤塚不二夫、巨匠・石ノ森章太郎、つのだひろの兄である心霊評論家・つのだじろうといった「トキワ荘一派」の漫画家は、旧友のアニメーター鈴木伸一(ヴァイオリン教育理論の人とは別の人)を中心に、アニメプロダクション「スタジオ・ゼロ」を設立します。
しかし、経営的に行き詰まったため、本来の土俵である雑誌漫画の世界において、藤子不二雄の二人が連載する作品に他の連中が協力するかわりに、稿料の一部を「スタジオ・ゼロ」の運営に充てようという案が出ました。

こうして『オバケのQ太郎』は始まったのです。


全体の構成や主要キャラは藤子不二雄の両名(Qちゃんをはじめとするオバケたちは藤本が、正ちゃんをはじめとする家族たちは安孫子が描いていたとか)ですが、近所の子どもたちのような脇役、あるいは背景は、前出の漫画家たちが協力していたのです。
とくに、石ノ森章太郎がかなり活躍していたようで、『オバQ』は後の作品とは違って、石ノ森章太郎の自画像系キャラがところどころに出てくる他、注意深く読み返せば、脇役たちの顔が、『ドラえもん』や『せえるすまん』でのそれとは、まるで違うことに誰でも簡単に気づくはずです。


最も端的な例として、『オバQ」の近隣子どもコミュニティーのヒロイン的存在「よっちゃん」(notイカ)の顔があります。

正編の『オバQ』の数年後、藤子・F・不二雄単独のペンによる続編『新・オバケのQ太郎』という作品が生まれますが(「バケラッタ、バケラッタ」のO次郎はこっちにのみ登場するキャラです)、ヒロインよっちゃんの顔がまったくと言っていいほど違います。
完全に別人ですね。
『新・オバQ』のよっちゃんは、『ドラえもん』のしずちゃん的な典型的藤本顔ですから。

それと、元祖『オバQ』での石ノ森章太郎によるよっちゃんとを比べると、
「女の子を描くのが、本当〜に、本当〜に苦手なのね。藤本さん」

と、妙にほほえましくなってしまいます(まあ、安孫子さんはもっとですが)。


そのような筆致のクセという問題を考えると、正編『オバQ』およびそのバリエーションでQちゃんの妹「P子」と暮らしていた「ユカリちゃん」が『新・オバQ』で登場しなくなった(完全にゼロではないけれど)、それなりの理由も見えてきます。

どっちがいいとかいう問題とは別に、「藤子不二雄とゆかいな仲間たち」による『オバケのQ太郎』と藤子・F・不二雄作品以上でも以下でもない『新・オバケのQ太郎』は、ハッキリと峻別する必要はありそうです。

(なお、まったくの余談ではありますが、『ドラえもん』の初期作品のひとつに「ロボ子が愛してる」という回があります。ドラえもんがのび太のためにガールフレンドロボットをあてがうという話なんですが、そこで登場する「ロボ子さん」は、完全に石ノ森章太郎が描く女の子の顔をしています。ある種の人々にとっては、しずちゃんの数百倍は「萌える」であろう、あの石ノ森ヒロインの顔をしているのです。藤子Fも石ノ森も鬼籍に入った今となっては確認のしようもないものの、間違いなく、この回には石ノ森が協力しているはずだ、とふんでいるのですが、さて、いかが?)



3アニメ版について



「オバケのQ太郎」は都合3回、アニメ化されています。

3回!というのは、実は大変なことでして、2回アニメ化された、というのなら、「サリーちゃん」や「アッコちゃん」など、懐かしリメイクでけっこうありますが、3回というのは、「Qちゃん」以外だと、「バカボン」ぐらいでしょうが。
(あと、「ゲゲゲの鬼太郎」が4回という不滅の記録を持っていますが、これって、1回目と2回目は、リメイクというより、続編だしなぁ。…あ、「Qちゃん」もそうか(^^;) )


これは僕に限らずほうぼうで指摘されていることですが、何度も繰り返すように、『ドラえもん』だけしか評価されていない、『ドラえもん』以外は忘却されている、という傾向は本当に強く、ビデオ化どころか、CSの放送も80年代以前のものは皆無というのが、藤子作品の現状です。


そのことに文句を言うのは別の場ででもするとして、ここでは、「Qちゃん」アニメの声優について、思い出したことでも随想風に述べましょう。

1965年の初代Qちゃんは、「デンジマン」のヘドリアン女王こと、曽我町子ですね。
大ヒット番組だったにもかかわらず、ビデオ化もCS再放送もない、不当に低く評価されている(としか思えない)不遇のアニメ。
1971年のリメイク版は、後に「忍者ハットリくんでござる。ニンニン」でも知られるようになる堀殉子が主演ですが、こちらも、もう長いこと陽の目を見ていないような気が。…

で、唯一、今日でも容易に見られるのが80年代のテレビ朝日版。
テレビ朝日とシンエイ動画が「ドラえもん」ブームの余波を狙って、藤子旧作のリメイクに熱心だった頃の一品です。
ここでの主役は天地総子でしたっけか。
声優としてより、
「♪ライオネス、コーヒーキャンディー♪」
とか、
「♪ペン、ペン、ペン、ペン、オリンパス・ペン♪」
といったCM歌手としてのほうがよほど実績のある人ですけれど。…

それにしても、原作マンガを読んでいても、なかなかイメージのわきづらいQ太郎の声を、万人に納得されるかたちでアッサリと提示してしまい、リメイク時の声優選出にも抜き差しがたい支配を及ぼした曽我町子のは、もっと評価されてしかるべきでしょう。
ブースカが高橋和枝になったのにも、ロボコンが山本圭子になったのにも、ドラえもんが大山のぶ代になったのにも、曽我町子の影響が見えかくれする…というのは、うがった見方なのでしょうか。


…と、こんなふうにとりとめもないことを綴りつつ、1960年代版と1970年代版の「オバQ」制作もと、〈東京ムービー〉の偉大なる足跡にも敬意を表したくなってしまう私でありました。

「オバQ」、「ド根性ガエル」、そして「ルパン三世」の東京ムービーは、かつて、うちの兄が勤めていた会社でもありました。(全然アニメ制作とは関係ない部署だったけれど)
この東京ムービーに、魔女っ子シリーズと熱血ロボットものの東映動画、「タイムボカン」シリーズと「ガッチャマン」のタツノコプロを加えたテレビアニメ制作会社ご三家の文化的足跡は、歴史教科書にも載っけたいぐらいなんだがなぁ。



4『オバQ』は日本の児童文化史に新しいジャンルを定着させた



前項にて少し触れた円谷プロの「ブースカ」と東映の「ロボコン」は、(あまりにも明白すぎるためか、意外と指摘されていませんが)間違いなく『オバQ』の後継者だったと確信します。

「ウルトラマン」と違って、しょっちゅう放送されていたわけでもないのに、まずファンシーなキャラクターとして平成の世でも認知されてしまった「ブースカ」。
東映のほのぼの生活コメディー路線の走りとなり、リメイクされたことも記憶に新しい「ロボコン」。

これらの作品は、「実写版『オバQ』」以外の何ものでもないではありませんか。
(何しろ、「ロボコン」の原作者は、『オバQ』スタッフの石森章太郎です)


もう少し、一般に敷衍させて語るなら、すなわち、冒頭で定義した“家庭内異物闖入コメディー”を定着させたのは、『オバケのQ太郎』です。

藤子自身のものでいうなら、『ドラえもん』も『チンプイ』もそうですし、「ロボコン」を媒介にして、「ペットントン」や「ネムリン」といった日曜朝の東映ものは、ことどとく、同じ構造を持っています。
子どものいる中流サラリーマン家庭に、ある日、異世界のキャラクターが現れて、居候するようになるという構造を。(※)

無論、『オバQ』が世界人類史上はじめての“家庭内異物闖入もの”だなどという気はサラサラありませんが、日本の児童向け作品において、ある種の“型”を定着させるのに、多大なる役割を果たしたことだけはたしかでしょう。

そこに関して言えば、『ドラえもん』すら問題にならない歴史的価値だと思うのですが、いかが?



5『オバQ』は蘇生されえない



にもかかわらず、『オバQ』は、「大ヒットした」という記憶こそ人々の中に残ってはいても、現在は完全に「忘れられた作品」となっています。

こころみに、本屋さん(not古書店)に行ってごらんなさい。
どこの本屋さんにも、『オバケのQ太郎』なんて置いてないから。

版権を持っているはずの小学館は、『オバQ』を絶版(もしくは“品切”という名の休版なのかもしれませんが、どっちにしても、入手できないというのは同じことです)したまま、文庫版にもなっていません。
知名度の点で『オバQ』よりどう見ても一歩譲るものが文庫化されているにもかかわらず、です。


この事情は、知らない人が多いので、とくに書いておきますと、先述した「藤子不二雄の完全なる合作」という点が裏目に出ているみたいですネ、どうやら。

藤子・F・不二雄の死後、会社を維持するためにと、『ドラえもん』を食い物に改悪しつづける「藤子プロ」と、藤子不二雄Aとの間の権利争い…というものが未決着だとか。

それはそれで、「大人の事情」としてしかたないとは思いますけど、実際に被害をこうむるのは、作品であり、読者であるわけだからなぁ。…う〜ム。…



※註釈
関係のない話ですが、ついでを言えば、これら『ドラえもん』、『ロボコン』系がいずれもホワイトカラーの中産階級家庭を舞台にした山の手ドラマであるのに対して、アニメ版の『ど根性ガエル』という作品が下町の母子家庭、どちらかと言えば下層階級に近い舞台であるのにも注目したいと思います。主人公ひろしが、いわゆるのび太的なキャラクターと対極の性格である点も異彩を放っています。


                         (2000年11月〜2001年3月)


P.S.
なお、『パーマン』の稿でも紹介させていただきましたが、完璧主義者「河井質店」さんの『オバQ』ページのデータ力は本当にあなどれないので、もし作品に興味がある方なら、ぜひとも訪れておくにしくはなし。

 

「小林孝博的マンガ喫茶」

 

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