普通の人のための経済学

わかりにくい経済問題も、普通の頭で考えればこんなに簡単?!
00年09月03日


マグリットと貨幣論


ここ数週間の新聞の日曜版ではマグリットの特集をしていた。同じ新聞の別の特集では、主婦の見たい絵画のベスト10でも、シュールレアリストを含めた近代画家の人気が高かったが、その中でもマグリットは日本人に人気が高いようだ。同じシュールレアリストのダリ等に較べてグロテスクさが少なく、はっきりした青空の色使い等に、どこか幻想的な感覚を見出すからなのだろうか。あるいは、ポップアート的センスが現代人と共通なのだろうか。

さて、そのマグリットの作品に『イメージの裏切り』(1929年)と呼ばれるものがある。キャンバス全体にパイプの絵が大きく描かれているだけの作品だが、この作品が問題作となったのは、キャンバス内に「これはパイプではない」という言葉が書かれているからだ。そこに描かれたものは紛れもなくパイプなのに、言葉では「パイプではない」と言っている。その絵の中では、私達が自然に言葉にパイプという言葉に対して抱いているイメージと、あるいはパイプそのものに附属しているだろう「パイプ」という言葉の関連を否定されるのである。

この絵を通じて私達は哲学の世界に向かうこともできる。物とは何なのか、真にそこに存在するのか、私達の目に見えているものは真にその物なのだろうか。あるいは、言葉とは何なのか、言葉の示す物と言葉の関係は何なのか、私達がパイプと呼ぶものが本当にパイプなのか。私達がお互いにパイプという言葉を使って何かを伝達したいと思ったときに、果たして本当に同じ意味のものを伝達できているのだろうか。難題は引きも切れないだろう。

さて、ここで「パイプ」という言葉が、その物を指すために単に便宜的に使われている記号だということに気づくだろう。この記号は、同じ約束が通用する範囲にのみ正しく用を為すに違いない。例えば、赤ん坊に「パイプ」という言葉を言っても、赤ん坊が思い浮かべるのはマグリットの絵にあるパイプではないに違いない。それは、赤ん坊には「パイプ」=たばこを吸うもの、という関連性が約束付けされていないからである。赤ん坊が大きくなって社会的なルールを知る中で、言葉を覚えて行く。そこで始めて彼らはこの約束事の仲間入りするのである。

このことは異文化の人間にも言える。今の日本人に「パイプ」と言えば、それなりに同じような物を思い浮かべることができるだろう。しかし、江戸時代の日本人に「パイプ」と言っても通じる訳がない。彼らの文化の中にはパイプという物自体が存在していなかったからだ。そこで逆にパイプという物を一時代前の日本人に見せて、その使い方を説明してやったとすれば、彼らはどう答えるだろう。恐らく、「キセル」と言ったのではないだろうか。当時の日本人にとってたばこを吸う道具は「キセル」であり、「パイプ」ではなかったのである。そう、言葉はあくまでもその文化に属するものであり、文化が違えば同じ言葉が同じ物を指すという約束事は通用しないに違いない。

今の日本人がマグリットの絵を見たとしても、その絵の説明を見ていなければ、「この絵に描かれているのはパイプだ」と思うだろう。絵の中に書かれたフランス語が読めなければ、マグリットが「これはパイプではない」と言っていることさえもわからない。つまりは、何も知らない日本人にとってこの絵は、単なるパイプの絵であり、どこにこの絵の面白みがあるのかも一切わからないだろうということだ。


さて、賢明なる読者は既にお気づきのように、この言葉の本質とは、貨幣の本質とつながるものである。お金がお金であるのは、その約束事を共有する範囲だけの話ということである。

例えば、1万円札を見せて「これは1万円である」と誰かが言明したとき、日本人はそれが1万円だということを知っている。しかし、未開の地に行って「これは1万円である」と言ったところで、それが1万円であることを知る人はいない。増してや、1万円がお米何キロ分に相当するのか、誰も知るわけもない。そのため、1万円札を現地人に渡しても、誰も見返りの品物はくれやしない。せいぜい彼らにとっては、ちょっとデザインの変わった紙切れとしか感じないだろう。これがパイプであれば、その使い方を教えてやりさえすれば、彼らにもその物の価値がわかるかもしれない。物としての実体があるからである。しかし、1万円札であればどうみても紙切れの役割以上のものを感じさせることは難しいだろう。お金は、まさしく言葉であり、単なる記号なのである。

記号としての貨幣の本質に気がつくと、事は更に複雑怪奇になっていくだろう。マグリットが「これはパイプではない」と言ったように、「パイプ」という言葉と、その言葉がイメージさせるパイプという物との間に1対1の関連付けはされていないのだ。「パイプ」という言葉は、もしかしたらパイプのことを指すかもしれないし、キセルのことかもしれないが、もしかしたら全く違うものかもしれない。「1万円」も、もしかしたら1万円札のことかもしれないし、1万円の価値を持った金(きん)のことかもしれないし、あるいは1万円の価値を持った他のものかもしれない。いや、未開の地の人々にとっては、私達の想像にも及ばない全く違う何かをイメージするかもしれない。

もしかしたら隣の人の「1万円」は、あなたの思っている「1万円」ではないかもしれない。現に、あなたが1万円で思い浮かべる商品と、隣の人が思い浮かべる商品は同じではないだろう。あなたは1万円というとPCソフト1本分だと思うかもしれないが、隣の人は洋服を思い浮かべるかもしれない。そこから感じる価値も全然違うだろう。それでもあなたのPCソフトと隣の人の洋服が物々交換できるのであれば、お互いが確かに同じ価値だと認め合ったということなのかもしれないが、それは、実際に交換してみないとわからない。それに、仮に一度交換が成立してあなたがPCソフトを手に入れて、相手が洋服を手に入れたとしたら、それをまた反対取引しようと思うだろうか、あなたにとって洋服は1万円の価値はないし、相手にとってもPCソフトは1万円の価値はないだろう。つまり1万円≠PCソフトだし、1万円≠洋服でもある。だとすれば、果たして「1万円」とは何だろうか。

ここで、ある人があなたの持つ1万円札を見つけて、「これは1万円ではない」と言ったとしよう。あなたは混乱するかもしれない。あなたが「1万円」だと信じていたものが、「1万円」ではないと言われたのである。これがマグリットの絵の持つ衝撃である。「これは本物の1万円札ですよね」、あなたは慌てて銀行に走りこむかもしれない。運が良ければ、あなたの1万円札を1万円札だと信じてくれる人に出会うことができるだろう。「もしも心配ならば、新しい1万円札と交換して差し上げましょうか」と言ってくれるかもしれない。だが、それでもあなたは不安が晴れない。新しく受け取ったものが本当に「1万円」なのかはよくわからない。あるいは、町に行って、どこかの商店で使ってみればいいかもしれない。その商店があなたの1万円札を受け取って、何かの商品と交換してくれるかもしれない。あなたの「1万円」であるPCソフトと交換できれば、紛れもなく「1万円」だ。

だが、あなたが全く知らない人から突然、あなたのPCソフトと「1万円」を交換しようと言われたら、注意が必要だ。あなたの受け取る「1万円」が本当に「1万円」であるかはわからない。仮にそれが1万円相当のドル紙幣だったとしたら、あなたはどうするだろうか。相手は100ドル札を見せて、「これは1万円以上の価値があります」と言うとしても、あなたはこれを受け取るだろうか。あなたに偽札を見抜く技術があればいいが、海外で出回るドル紙幣のうちかなり高い確率で偽札が流通しているなんていう良からぬ噂もある。幾ら世界一信用される通貨だとはいっても、俄かには信用できないに違いない。

繰り返しになるが、お金は単なる記号である。それが通用するのは、一定のルールを皆が共有しているからである。その約束事とは、「1万円」と書かれた紙幣を渡されたら、1万円相当の商品と交換するというルールである。このルールが守られている範囲においてだけ、「1万円」という記号は1万円の価値を持っている。近年、このルールはより拡張されている。かつては「1万円」は1万円分の紙幣でしか表せなかったが、今は通帳の「1万円」という印刷された数字でもいいし、カードの中に電磁的に記録された「1万円」という記号でもいい。かつては金銀が、そして後に紙幣を直接相手に渡すことが必要とされたが、やがてオンラインの振り込みで通帳の数字を書き換えるだけでも良くなった。今ではあなたがPC上で「1万円」と打てば、それが「1万円」として世の中に流通して行くのである。

記号化されると製造は簡単になる。パイプそのものを作るには職人が何時間もかかるのかもしれないが、「パイプ」という言葉は、あっという間に無尽蔵に作ることができる。「1万円」も、1万円の価値を生み出すには時間がかかるかもしれないが、1万円札は1秒間に何枚も刷られ、「1万円」という記号に至っては、いつでも簡単にコストもなく製造できる。あなたが「これは1万円である」とさえ宣言すれば、同じルールを使う人々の間では、「1万円」が創造できるのだ。1万円札という紙幣を作ることは日銀にしか許されていないが、「1万円」という言葉を発することは犯罪ではない。私もこの文章中に既に何回も「1万円」と書いたが、これは偽造ではない。(ただ、誰も私の「1万円」という言葉と交換に物をくれないのではあるが。)

貨幣は最も本質的な姿に近づきつつある。今後世界中にオンライン銀行が数多く誕生するだろう。オンラインで貨幣が次から次へと量産され、流通して行くに違いない。だが、それは単に記号に過ぎない。記号が通じるのは、あくまでも同じ約束事を共有できる範囲内だけである。誰かがその約束事を破る時、あるいは、約束事を知らない誰かがその記号の意味を問うとき、突然記号のイメージと実体との乖離が浮かび上がり、記号が単なる記号であったという事実を突きつけられることだろう。

マグリットはパイプを「これはパイプではない」と否定した。いつか誰かがまたマグリットを演じるかもしれない。

‐‐‐「これは貨幣ではない」


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